room of alchemy - 錬金術の部屋 -

selaのプロフ☆和田灑羅(sela/俗名:和田百合)☆株式会社SVT代表取締役。2011年より、「魔法の時間」というスピリチュアル・ワークショップを主宰中。

selaの知る不思議な世界のお話や魔術・錬金術・瞑想といった技術のお話を気の向くままに綴ってみました。誰かが何かに気付く場になってくれれば嬉しいです☆ ※アダカテにしているのは歴史・神話・宗教などの記事でそういうことに触れる必要があった場合や性魔術などの記事を書きやすくする(言葉の規制を受けにくくする)為の選択です。記事の内容はアダルトではありません。本来のカテゴリは魔術・錬金術・思想・哲学・歴史などを含むスピリチュアル系になります。※

印形(シジル)

無の書です。今回のお話はイミフな呪文とか符(シンボル)とかをどうやって作るのってお話です。

selaぴょんがひらがなとか数字の読み書きができるようになった頃の遊びです。お友達の姉兄(小学生)の間で流行ってるとかで、selaぴょんのお友達の間でも広がったんですけど。ひらがなで簡単な文章をつくり重複する文字を消し込み、残った文字で別の単語や言葉を作るというもの。単なる子供の言葉遊びが無の書では呪文(マントラ)作成の手法じゃないですか。もうびっくりですよw当時何でこんな遊びが流行ったんだろうと謎なんだけど。

無の書では英語での文章が例題になってます。英文で重複するアルファベットを消し込んで残ったアルファベットで違う文章を作る。…ひらがなとアルファベットの違いだけじゃん!ってことです。無の書はアナグラムだけじゃなく、残った文字を図形的に組み合わせることでオリジナルシンボル(符)にすることや何らかの行動や願望をイメージしその形を簡易化することでシンボルにする方法など紹介しています。必ずしもこの手法に準じる必要はありません。自分なりの手法を作るのもありです。その場合は自分だけの法則をちゃん決める必要がありますけどね。

ここで言うシンボルやマントラは万人に理解される必要はありません。それを使う自分だけがわかればいいのです。RPGをされる方なら「何でDQの回復魔法はホイミなんだ?」って思ったことありませんかw DQシリーズで遊んだことのある方なら「ホイミ=回復」って認識ができていても、初めて遊んだときはものすごくイミフだったことでしょう。でも「ホイミ=回復」ってワード設定した人には法則があったはずなんです。どんな法則かは別として、自分でマントラを作るというのはそういうワード設定(自分だけの言語をつくること)に似ています。だからこそ他人にとってはイミフでいいし、イミフになっちゃうんです。そのマントラを作った人にとっては元の意味ある文章を知っている訳ですから、イミフな言葉は作者にとっては意味がある言葉であり、何かを成すための言葉…呪文…である訳です。さてさて問題は印形を作る意味と使い方の部分。

引き寄せの法則のように自分の欲望を思うだけで願望を叶えるケースもなくはないですが、自分の望む欲望を意識し過ぎても失敗するし、何度か失敗すると人は成功すると信じなくなってしまうので魔術訓練に向きません。実現しない欲望程、望まないことを引き寄せるという矛盾に陥るのを避けるため、自分の思考の中から目的の欲望を都合よく消す作業が必要になる訳です。その道具として印形が有用なんですねぇ~。印形を作るとき(使う時)、一旦はそれが持つ自分の欲望に意識はフォーカスされるけれど、印形によって欲望は簡略化されたりイミフになってたりと、直接的にその欲望へのイメージを維持し続けるのは難しいという事実があります。印形が単純であればあるほどその欲望に集中し続けられないというw結果、自分の欲望は現実化しやすくなる訳です。

東洋の符術等は既にイミフなイメージ画が先にあってそれを模写して行使する訳ですけれど、無の書は模写ではなくオリジナルで作るってだけのこと。そして、西洋魔術であれ、東洋魔術であれ、「忘れる」という作業は大事だったりします。後はどういうタイミングでそれを使うかってことですが人によってそのタイミングもマチマチです。いろいろなタイミングを試しながら効率のいいタイミングを見つける必要もあります。

ちなみに、selaぴょんの場合は感情の起伏が激しい時のピーク時程結果がいいw感情が収まるのに合わせるかのようにその時点での欲望も綺麗に忘れてしまうからなんでしょうけれどw なので、怒りとか負の感情はあまりよろしからぬ結果をもたらすのでできるだけ感情に波風を立てないようにしてるのであったった💦

NEW VISION

文字通り「新しいビジョン」ってことなのですが、禅の言うところの『ビジョン』とは何?ってお話です。

多くの人は『ビジョン』という言葉から、未来の自分はこうなっていたいというような予想(願望)を連想することでしょう。ですがほとんどの方は明確な将来図を描けないのではないでしょうか。理由は簡単です。【人は自分が経験したこと、見たことのデータベースを元に未来を描く】生き物だからです。ある程度年齢を重ねた方は、いくら大富豪になりたいと思っても、そういう経験がない以上そうなってる自分という未来予想図はなかなか描けないものなのです。子供の場合は逆に経験が少ない分だけ何にでもなれる自分=可能性の幅が広い未来予想図を思い描くことができます。さてお気付きでしょうか。自分の可能性を狭めているのは自分だということを。

人は大人になるほど理屈(思考)が何かと行動を制限するようになります。何かの職業に就きたいと願っても、その資格を得るためにどれだけの勉強をしなければならないとか、どれだけの費用がかかるとか、いろいろと理由を付けてはその願いを断念させようとする『思考』という存在がすべての人にあるからなのですが。最近の塾のCMで見かける「サボロー君」もそういった思考の一つを擬人化した例ですよね。擬人化できる思考というのは「サボロー君」だけじゃないってことです。人の中にはそういう擬人化したら面白そうな思考が山ほどある訳で、それらが脳内で時には協力し、時には対立し、夢と理想に溢れた未来予想図をどんどんつまらない未来予想図に変えていってしまってるのです。なら、どうしたらいいのか?既成概念でがんじがらめになったその脳内をどうにかしてあげればバラ色の未来予想図を描くことも不可能じゃないのですけど、どうにかするのがまた大変なんですけどねww

人は多くの物事を2つの感覚で仕分けします。善悪、上下、光と闇…といった相反する二つの事象に。それは人の精神性が成長する過程で避けては通れない部分なのですがそこから逃れられないためにいろいろと歪みも起きる訳で。自分の新しい可能性を見つけたいならば、まずはこの仕訳作業をやめることから始めなくてはいけません。『清濁併せ飲む』という言葉があります。良きことも悪しきことも自分にとって必要なこと、どちらも受け入れるべき現実であるとして受け入れることを意味する言葉です。相反するものを同時に、同等に必要と認識し受け入れられたときこれまでとは違った「モノ」を人は見ることができると禅の言葉は説きます。その時に見えるビジョンこそ禅が説く「新しいビジョン」であり、今まで自分が考え出すことすらできなかったような未来予想図になると説かれています。

禅の説く「新しいビジョン」。実はその先にある「モノ」にも触れています。所謂『悟り』の境地とも言うべきものですけれど。喩えるなら、宇宙のすべてを見渡せる視野を手に入れるようなものだそうです。

さてさて…いろんな自己制限をかけ過ぎて身動き取れなくなってることにすら気づいてない人達が多い今の世の中にあって、今の自分の状況を面倒にしちゃってる張本人が自分だと気づいてくれるだけでも世の中かなり変わるとぞと思うselaぴょんなのであったった☆

死を装う

自分は死んだと想像することから始まる瞑想です。

死んだ状態、つまりは動けない状態ってことですね。どういう状態で自分は死んだと仮定するかで大変さも変わってきます。例えばベッドの上で静かに息を引き取ったなら、まずはそのまま横たわったまま手足を動かすこともなく目を動かすこともせずただただその姿勢でずっといる。目を開けて死んだと想像するなら瞬きも禁止。死者が瞬きしたりキョロキョロと周りを見るなんてことはしませんからね。例えば、どこかで発作を起こして倒れたなら、事故に巻き込まれたなら、戦乱に巻き込まれたなら…など、いろいろと自分が死んだ時の姿勢を想像してみる。そしてその姿勢で死者のふりをして瞑想する。これが今回の瞑想です。

死者は何もできません。瞑想中どんなに動きたいと思っても死体は動かないのですから動いてはいけません。動きたい衝動に抗いながらこの瞑想を続けのはとっても難しいです。脳内では思考がうるさいくらいにぐるぐるするでしょう。身体をわずかにでも動かせない肉体の不快感も襲ってくることでしょう。でも、死体が動くことはないのです。死体は何もできないのです。だからどんなに不快であっても最初に自分が想定した「死の姿勢」はそのまま維持しなければいけないのがこの瞑想の辛いところです。でも、死んでるんですから何があっても「自分は死んでるように扱う」しかないのです。金縛りの体験がある方なら動きたくても動けない、恐怖とか焦りとか怒りといった思考がぐるぐるするという状況がわかると思います。それを意識的に行うのです。自分の意志でするのと、そういう状況に意図せずなることの違いはありますけど、こういうことかというイメージとしてわかりやすいだろう喩えですが。

さて、ここまで不愉快で不快な状況で行う瞑想に何の意味があるのかってお話になる訳ですよね。ここでは「死」というものを疑似体験している訳です。実際、自分が死ぬときはこういうふうに死んでいくのだと感じる人も居るようです。死を受け入れるという感覚を知る人もいます。selaぴょんはこの瞑想をするとだんだん呼吸が少なくなります。でも苦しくはなかったり。なのでselaぴょんは死に対する恐怖はないんです。でも怪我とかの痛みに対する恐怖は未だに消せてないというおかしな状態だったり。というのはおいといて…。疑似体験ではあっても数分「死」という状態に留まることができたとしたら「変化」に気付くでしょう。変化は人によって様々です。言葉にするのはとっても大変なんですけれどね。

そして応用編。
↑では「死」の疑似体験をしました。言葉遊びに見えるかもですがこの瞑想の先に「死んだ者」ではなく「死んでいること(状態)」という行為そのものなっていくのを理解するでしょう。何でもいいのです。ジョギングが日課とか趣味ならば「走者」から「走ること」そのものになってみる。何かを飲むとき、食べる時に「飲むこと」「食べること」といったプロセスになってみる。行為(プロセス)そのものになるというとイミフに感じるかもしれませんけれど、ただそのプロセスだけになれたとき見つかる何かがあるとだけしておきます^^