room of alchemy - 錬金術の部屋 -

selaのプロフ☆和田灑羅(sela/俗名:和田百合)☆株式会社SVT代表取締役。2011年より、「魔法の時間」というスピリチュアル・ワークショップを主宰中。

selaの知る不思議な世界のお話や魔術・錬金術・瞑想といった技術のお話を気の向くままに綴ってみました。誰かが何かに気付く場になってくれれば嬉しいです☆ ※アダカテにしているのは歴史・神話・宗教などの記事でそういうことに触れる必要があった場合や性魔術などの記事を書きやすくする(言葉の規制を受けにくくする)為の選択です。記事の内容はアダルトではありません。本来のカテゴリは魔術・錬金術・思想・哲学・歴史などを含むスピリチュアル系になります。※

身魂を養う

日月神示 上つ巻 第17帖です。

原文は食のお話です。この世はすべて㋹のものだから作物はまず㋹に供えてから頂きなさいというお話なのですが…。神社とかお寺さんは一度お供えしたものを日々のお食事として頂いてるところも多いでしょうが、家庭ではそういうことしてませんよね。家庭菜園とかでお野菜育ててはいても収穫したものを神棚やお仏壇にお供えするなんてことしませんよねぇ~。そういうことをしないといけませんよ~ってお話もありますけど、今回のお話はそれだけじゃないのでした。

お神さんはこの世のすべては㋹のものだと言っています。大地も、そこから収穫されるものも、そして明記はしていませんが大地から命を得ているすべては㋹のものだと暗に言っていたり。お寺さんはさすがに殺生を良しとしていませんので農作物をお供えするにとどまっていますが、神道ではすべてはお神さんの恵みと捉えているのでお肉やお魚などもお供えとして祭祀の時には三方に載る訳です。それと同じように人は口にするものはすべてお神さんにお供えし感謝した上でそれを頂き調理しなさいってお話になるのです。

さてさて…現代の家庭事情として、神棚や仏壇のあるおうちというのはかなり少ない訳で、お供えして頂くというのも難しい場合もあります。そういう住環境の方が神示の言うようにはできないと反論もあるでしょうが過去の神示の記事でも触れたように㋹は誰の内にも居ます。なので、食に関しては自分の内にある㋹に捧げるつもりで頂くようにしましょうとなる訳です。

ここで問題です。お神さんにお供えする食です。どんな食をお供えしますか?

現代人の多くは食に対して無頓着です。食べれればいいという方も居ます。高価な食材を贅沢に調理したものを好む方もいます。神示が求めているのはそいう様々な嗜好のことではありません。身魂の栄養となるものであればここでは何を供えるかは問題にされていません。(読み進めると食すべきものに触れてますが、この帖では触れていませんので割愛します。)ただ、身魂の栄養となっていないから現代人は過食になっていると言ってはいますけど。

身魂の栄養になっていないため、現代人の多くは肉体の維持に必要な量以上のものを食す結果になっています。過食の一因として身魂が必要な栄養が足りてないからだと言ってるのです。ではどうするか。身魂が必要とする栄養を足りるようにしてあげればよいってなりますね。そのためにも㋹に供えるということが大事になると神示は語っているのでした。

selaぴょんも㋹のことをいつでも考えてるかというとそういう訳じゃなく、身魂が栄養失調になってるからか食べてるのに食べたりないと感じることも多かったり。そのせいか「子豚ちゃんがころんころん」なんて揶揄されてますけどね><
立春を目前に神示の内容がこれってことは、お神さんを意識した食事をすれば「子豚ちゃん」なんて言われなくなるんだろうと思いつつ…あとはいつまで続けられるかだな( ̄▽ ̄)

魔術実践準備

久々に無の書に帰ってきました。やっと「魔術」らしいお話に入れます!オイ

今まではいろいろな瞑想を通して、魔術師の心の状態や魔術を実践するための精神状態を鍛えるようなお話ばっかでしたけど、ここからはより実践的なお話や「魔術理論」のようなお話になるのですけれど…。その前準備がまだあるのだよ><

無の書の著者は前準備の1つとして、『魔術師は何らかの占術(卜占系。占星術は該当しない。)に精通していること』を条件としています。それも、偶然的要素や自己願望要素を排除できるだけの習熟度が必要と言うから…ま、大変ではありますね。どの程度の習熟度が必要かと言うと、オラクルカードなら自分の意識を変容させ、その絵の中に意識を遊ばせられる程度、ルーンならその文字、易占ならその卦(長線と破線を組み合わせた64の印形)が象徴するものを心意的に具象化できる程度ってことになります。

2番目の準備はどんな時でも瞬時にトランス状態になれるようにしておくってことでしょうねぇ~。手印とかマントラにそのための条件付けすることで瞬時に求められる状態になれるようにするのも一つの方法です。(前回までのお話がこのための訓練だったんですけどね。)

3番目は魔術武器の用意らしいですね。そんなの用意したっけか?って自分を振り返ってみたときに、まだオカルトの世界に片足踏み込んだ時に独鈷だの水晶ポイントだの持ってたっけと思い出しました。でも、当時はそういう目的で持った訳じゃなかったんだよなぁ~と思いつつも、結果としてそういう役目になってたのかと今更ながらに納得ちう^^;
魔術武器に関しては著者の解説もあって、『魔術師の熱望を体現していなければいけない』としてるものの、それを苦労して自作したり、入手に対して重要視しすぎちゃいけないとも釘刺してます。実際よく見せられましたけどね。 「これは、これだけ苦労して作りあげたんだよ」 「これを見つけるまでにいろいろと探し回ったんですよ」 とかいう銀製やクリスタルの短剣だのワンドだのの数々をww それ、道具に振り回されてませんか?って状態なので著者も釘刺してるんだろうなぁ~とselaぴょんも納得してしまいます。

4番目、追儺儀式。喩えるならハードなスポーツを行うときのアップとかダウンといった軽い運動のように、本来の目的であるところの魔術を行う前準備や完了させるために行う儀式のことです。オカルトの世界だから現実世界のものの考え方ではありえないことも、起きちゃう世界だったりもしますから自己防衛はきちんとしておけと言うのが著者の意見です。そのためには自分で視覚化できる障壁を張れとか、第三の目や音に集中しろだの、短時間でも思考停止の状態をつくらなければならないとかありますけどね。追儺儀式はできた方がいいのでしょうができないからと言って嘆く必要もありません。できなければ自分の手に余るような魔術行使をしなければいいだけのことですからね~ニッコリ

魔術実践のための前準備ですが、これで完了ってことではありません。他に印形とかマントラとか準備するものはあるのです。ということで印形とかマントラといったお話は次回に持ち越すのであったった☆

結果を期待せずに働く

久々のギーターです。2章39節~47節のあたり。要約すると『結果を期待せずに働くことでカルマ(業)から解放される。』ってことを様々な喩えを使ってクリシュナ君が解説してるって内容です。いやぁ~簡単に終わった終わった^^…って駄目だよね?…クリシュナ君に代わって解説しますよ。(T^T)ウルウル

一般的に、知識とか知恵と呼ばれるものと知性と呼ばれるものは同じように思われがちですけれど、ヴェーダでは別物となります。知識や知恵はその時を生きるための理論であって本質ではなく、本質に由来するものは「知性」と呼び分けられているという事なのです。で、今までのクリシュナ君のお話は理論であって知性ではないと本人ものたまってくれております。その上で、知性の側から今回のアルジェナ君の問いに答えるならば『結果を期待せずに働けよ』って一言に集約される訳で、今回のお話の範囲はその一例をいくつか挙げてくれてるって部分になります。

さてさて…原文だと専門用語多すぎなんで引っかかりそうな用語の解説しておきます。
サンスクリット語では知性をブッディと呼びます。どこかで聞いたような響きじゃありませんか?『仏陀(ブッダ)』…似てますねw。漢字はサンスクリット語を漢語に訳す際の当て字ですから字面に惑わされちゃいけません。本質であるところの知性=ブッディに至った人のことをブッダと呼ぶってだけのことです。仏教用語としても、仏陀は釈迦尊を指すだけではなく悟りを開いた人を指す語でもありますから。
真理を神と同義と捉えます。正しくは「ブラフマンの真理」。略して真理とだけ言う場合もあります。この世界を作った神であるブラフマンはすべての可能性、知性を内在する存在です。古代からヴェーダを信仰する人々の最終目的はブラフマンと同一になることなので、その『ブラフマンの真理』はブラフマン自身であるとの解釈から真理は神であるとなる訳です。
二元対立。これは解説しなくてもご存知ですよね。善悪や光と影、表裏など相反するものでありながら、一方が存在することでしかもう一方も存在しえないもの。二元論という言い方もあります。自己存在の否定にもつながるのに何故対立するんだろうかと疑問に思うselaぴょんなのですが、天使と悪魔の戦いとか物語のモチーフとしては楽しいですよねww
三性質(トリグナ)。人の内にある3つの行動原理とも言える性質のことを言います。サットワ(善徳・調和・無欲性)・ラジャス(激情・欲望・積極性)・タマス(暗愚・無知・消極性)の3つ。解りやすく喩えるならニュートラル・アクセル・ブレーキとなりますかねぇ~。より詳細にってなると難しい言葉が並んで長くなるのでこの程度にしますけれど、タロットを使われる方ならこの本質もよくご存知でしょう。大アルカナ10番運命の輪を回す要素ですからねぇ~。もしも知らないと言うなら勉強不足ですし、他者をリーディングする資格なしと言い切らせて頂きます!

ということで本文に戻って。断固たる意志を持つ人にとっては目的に向かって頑張るだけなので何の苦もないでしょう。でも、そうでない方…優柔不断な人…にとっては些細な選択肢が気になってしまい目標を見失うのはよくあること。枝葉ばかりを見て幹を見ないという喩えが使われるのと同義。気にするなってのが難しい場合も多いですけどね。表面的な賛辞や贅沢な生活とか、富だの栄華だの快楽だのを追い求めたいのは人としてはもっともだったりしますしねぇ~。そういう事を追い求めて右往左往してる方のその努力は無駄だとクリシュナ君は言い切ってます。更にはそういう方々に真理を求める決断は起きないのだとも断言しちゃってます。その理由として、巨大な貯水池を持つ人が小さな池を重視しないのと同じって説明してますけど。クリシュナ君理論だと、目先の利益や損得などといった小さい富に固執するよりは、真理の中にある巨大な恩恵に与るべきだってことなんですが、その巨大な恩恵ってのがよくわからない、見えないってことで、皆さん右往左往することになっちゃってるってことです。この恩恵ってのが何なのかってお話はこの後クリシュナ君が説明してくれてますので解説もまたその時にってことで^-^

で、戒めの言葉が更に続きます。『定められた義務を行う権利はあるが、行為の結果についてはどうする権利もない。だが怠惰に陥ってもいけない。』…つまりは、結果を期待しないで目の前にある義務を果たすことだけをただひたすらに考え、そして成せってことなんですけど~。やっぱり、やったことの結果は期待しちゃうのが人だと思うんですよねぇ~。ってことで、めちゃ難しいです><

まだまだ未熟なselaぴょんは、やっぱりやったことへの結果(報酬)は期待しちゃいたいなぁ~なのであったった☆