呼吸法も8回目になりました。そろそろ飽きてきた感もあるかもしれませんねぇ~。selaぴょんも飽きてきてるもん^^;
タントラは『最大限の献身とともに、息のふたつのつぎ目に中心を合わせ、そして知る者を知る。』です。以前のお話で呼吸の転回点に触れました。吸って、吐いて、また吸って…その繰り返しの中で呼気から吸気に、吸気から呼気にと切り替わる点が呼吸には存在すること、そしてその転回点に意識を向けなさいというお話を。今回のお話と何が違うんですか?って思われる方は多いでしょう。違うのは機械的に呼吸を見つめるのか、タントラにあるように『献身的に』それを行うのかの違いです。わずかな差に思えるかもしれませんが実際には雲泥の差なのです。

人によって、ただただ機械的に呼吸を見つめるのことに得手不得手があります。苦手じゃない人は機械的に呼吸の転回点を見つめ続ければいいので今回のお話はおまけになるかなぁ~。ですが、機械的な技法が苦手な人には前出の技法は苦痛でしかないらしいのです。そういう機械的技法が苦手な人のために同じ技法にわずかな違いが付け足された訳です。それだけこの呼吸のつなぎ目を見つめる瞑想は重要だってことなのですよ。
まぁ、現実問題として苦手かどうかよくわからない方も多いでしょう。どっちも苦痛だって言う方も居るでしょうしw苦痛かどうかよくわからないなら両方やってみればってことになりますかねぇ~。で、両方やってみるとととんでもなく大きな違いに気付くでしょう^^お話を戻して…2つの瞑想法の些細な「違い」が『献身的』ってことな訳です。で、当然ながら『献身的』って何なのよ??ってなる訳です。

信仰心の強い方、自己犠牲の傾向が強い方は神様のため、誰かのため…って、献身する対象が明確であるならばいくらでも自分を投げ打って尽くすことができるでしょう。その献身の対象が自分ならどうでしょうか?できる?できない?受け止め方はそれぞれでしょう。この瞑想では自分に対して献身的になれって言ってるんですよね。あ~めんどくちゃw
かつて聖者と呼ばれる人たちの多くは「自己愛」の権化だったそうです。自分の身体を文字通り愛してるんですよ。まるで自分の肉体が恋人の肉体のごとく慈しみ愛した訳なんですが…この記事読んでる方たちはどうなんでしょうねぇ~?聖者のごとく自分の身体を愛してますか?機械のように思ってます?それとも…。人の数だけ自分に対する思いも違うでしょうが、ここで注意しなくちゃいけないのは「自分が可愛い」のとは違うってことです。

敢えて、聖者を引き合いに出したのは、『聖者の自己愛』とそうじゃない人の自己愛の差って何かということな訳ですよ。聖者と言われる方々は『己の神聖性』を疑うことが無い故に己の肉体をも慈しみ愛せた訳です。言い換えるなら自らに対して献身的になれているのは、自らの神聖性に対する献身ってことになる訳です。なかなかそこまで達観はできません。
今回の技法に当てはめるなら、自分がしている呼吸は自分だけではなく自分の中の神さんも一緒に呼吸してると意識することになります。お神さんと共にしている呼吸であるならば己のすべてをお神さんに捧げるつもりで呼吸する。その中で呼吸の転回点を見つめ、それを「知るもの」が誰なのかを見つけ出す。ってことになる訳です。

簡単じゃありません。でもやってみる価値はあります。興味があればお試しを☆