自分は死んだと想像することから始まる瞑想です。

死んだ状態、つまりは動けない状態ってことですね。どういう状態で自分は死んだと仮定するかで大変さも変わってきます。例えばベッドの上で静かに息を引き取ったなら、まずはそのまま横たわったまま手足を動かすこともなく目を動かすこともせずただただその姿勢でずっといる。目を開けて死んだと想像するなら瞬きも禁止。死者が瞬きしたりキョロキョロと周りを見るなんてことはしませんからね。例えば、どこかで発作を起こして倒れたなら、事故に巻き込まれたなら、戦乱に巻き込まれたなら…など、いろいろと自分が死んだ時の姿勢を想像してみる。そしてその姿勢で死者のふりをして瞑想する。これが今回の瞑想です。

死者は何もできません。瞑想中どんなに動きたいと思っても死体は動かないのですから動いてはいけません。動きたい衝動に抗いながらこの瞑想を続けのはとっても難しいです。脳内では思考がうるさいくらいにぐるぐるするでしょう。身体をわずかにでも動かせない肉体の不快感も襲ってくることでしょう。でも、死体が動くことはないのです。死体は何もできないのです。だからどんなに不快であっても最初に自分が想定した「死の姿勢」はそのまま維持しなければいけないのがこの瞑想の辛いところです。でも、死んでるんですから何があっても「自分は死んでるように扱う」しかないのです。金縛りの体験がある方なら動きたくても動けない、恐怖とか焦りとか怒りといった思考がぐるぐるするという状況がわかると思います。それを意識的に行うのです。自分の意志でするのと、そういう状況に意図せずなることの違いはありますけど、こういうことかというイメージとしてわかりやすいだろう喩えですが。

さて、ここまで不愉快で不快な状況で行う瞑想に何の意味があるのかってお話になる訳ですよね。ここでは「死」というものを疑似体験している訳です。実際、自分が死ぬときはこういうふうに死んでいくのだと感じる人も居るようです。死を受け入れるという感覚を知る人もいます。selaぴょんはこの瞑想をするとだんだん呼吸が少なくなります。でも苦しくはなかったり。なのでselaぴょんは死に対する恐怖はないんです。でも怪我とかの痛みに対する恐怖は未だに消せてないというおかしな状態だったり。というのはおいといて…。疑似体験ではあっても数分「死」という状態に留まることができたとしたら「変化」に気付くでしょう。変化は人によって様々です。言葉にするのはとっても大変なんですけれどね。

そして応用編。
↑では「死」の疑似体験をしました。言葉遊びに見えるかもですがこの瞑想の先に「死んだ者」ではなく「死んでいること(状態)」という行為そのものなっていくのを理解するでしょう。何でもいいのです。ジョギングが日課とか趣味ならば「走者」から「走ること」そのものになってみる。何かを飲むとき、食べる時に「飲むこと」「食べること」といったプロセスになってみる。行為(プロセス)そのものになるというとイミフに感じるかもしれませんけれど、ただそのプロセスだけになれたとき見つかる何かがあるとだけしておきます^^