文字通り「新しいビジョン」ってことなのですが、禅の言うところの『ビジョン』とは何?ってお話です。

多くの人は『ビジョン』という言葉から、未来の自分はこうなっていたいというような予想(願望)を連想することでしょう。ですがほとんどの方は明確な将来図を描けないのではないでしょうか。理由は簡単です。【人は自分が経験したこと、見たことのデータベースを元に未来を描く】生き物だからです。ある程度年齢を重ねた方は、いくら大富豪になりたいと思っても、そういう経験がない以上そうなってる自分という未来予想図はなかなか描けないものなのです。子供の場合は逆に経験が少ない分だけ何にでもなれる自分=可能性の幅が広い未来予想図を思い描くことができます。さてお気付きでしょうか。自分の可能性を狭めているのは自分だということを。

人は大人になるほど理屈(思考)が何かと行動を制限するようになります。何かの職業に就きたいと願っても、その資格を得るためにどれだけの勉強をしなければならないとか、どれだけの費用がかかるとか、いろいろと理由を付けてはその願いを断念させようとする『思考』という存在がすべての人にあるからなのですが。最近の塾のCMで見かける「サボロー君」もそういった思考の一つを擬人化した例ですよね。擬人化できる思考というのは「サボロー君」だけじゃないってことです。人の中にはそういう擬人化したら面白そうな思考が山ほどある訳で、それらが脳内で時には協力し、時には対立し、夢と理想に溢れた未来予想図をどんどんつまらない未来予想図に変えていってしまってるのです。なら、どうしたらいいのか?既成概念でがんじがらめになったその脳内をどうにかしてあげればバラ色の未来予想図を描くことも不可能じゃないのですけど、どうにかするのがまた大変なんですけどねww

人は多くの物事を2つの感覚で仕分けします。善悪、上下、光と闇…といった相反する二つの事象に。それは人の精神性が成長する過程で避けては通れない部分なのですがそこから逃れられないためにいろいろと歪みも起きる訳で。自分の新しい可能性を見つけたいならば、まずはこの仕訳作業をやめることから始めなくてはいけません。『清濁併せ飲む』という言葉があります。良きことも悪しきことも自分にとって必要なこと、どちらも受け入れるべき現実であるとして受け入れることを意味する言葉です。相反するものを同時に、同等に必要と認識し受け入れられたときこれまでとは違った「モノ」を人は見ることができると禅の言葉は説きます。その時に見えるビジョンこそ禅が説く「新しいビジョン」であり、今まで自分が考え出すことすらできなかったような未来予想図になると説かれています。

禅の説く「新しいビジョン」。実はその先にある「モノ」にも触れています。所謂『悟り』の境地とも言うべきものですけれど。喩えるなら、宇宙のすべてを見渡せる視野を手に入れるようなものだそうです。

さてさて…いろんな自己制限をかけ過ぎて身動き取れなくなってることにすら気づいてない人達が多い今の世の中にあって、今の自分の状況を面倒にしちゃってる張本人が自分だと気づいてくれるだけでも世の中かなり変わるとぞと思うselaぴょんなのであったった☆