※セクシャリティに関する用語は標準的な単語を使うようにしてます。
言葉の意味はここでは触れません。
Wikiなどで調べられますので参照してください。
近頃セクシャル・マイノリティ(セクマイ)の子たちと
一緒にいる機会が増えてきてたりして。
自分のセクシャリティを自覚している初対面の子に
selaぴょんのセクシャリティを話すと不思議そうにする子と
感動しちゃう子にわかれるような気がするけど・・・まぁいっか(笑
とある哲学書の中にこんな文章がありました。
以下はその意訳。
人は、愛を知るために恋愛をする。
その最初のステップが異性愛。
自分と違うものを愛することを知るために異性に恋をする。
愛することを少し覚えた魂はもっと広い意味の愛を知るために
同性愛者となり人と違う愛の形を学ぼうとする。
もう少し愛することを学んだ魂は異性愛・同性愛の壁を越え
人という「個」を愛することを学ぶ。
この本を読む前にあたしは自分のセクシャリティを自覚してました。
そのせいかどうかは別としてごくごく自然な当たり前のこととして
この文章を受け入れることに何の抵抗もなかったのを覚えています。
だってね。selaぴょんのセクシャリティは今風に言うならバンセクシャルだから。
こういうカテゴライズは好きじゃないんですけどね。
好きになった人のセクシャリティが自分とかみ合わないなら
友達として楽しくかかわっていけばいい。
セクシャリティが合うなら恋愛すればいい。
相手がトランスジェンダー(肉体改造の有無にかかわらず)だとしても
その人とかかわりたいと思えばかかわりを持つし
対個人という意味では一人の人に限定する必要も無いと思っている。
ある意味、世の中の常識から外れてると言われそうだけど
本質的には個人対個人のかかわりの持ち方だと思うから。
そんな訳で
セクシャリティを理由に自分や他人に枠をはめる必要はないし
少なくともあたしは自分から枠にはまったり他人に枠をはめたりはしない。
そうされることも嫌だしね(^-^)
もっと自由に自分を表現するためのツールであって欲しいなと思うのです。
それはそれとして・・・
selaぴょんはセクマイの子たちの相談役(?)みたいなことも
この先していかねばならないのかなぁ~と
墓穴を掘ったような気がするのであったった(^^;