room of alchemy - 錬金術の部屋 -

selaのプロフ☆和田灑羅(sela/俗名:和田百合)☆株式会社SVT代表取締役。2011年より、「魔法の時間」というスピリチュアル・ワークショップを主宰中。

Vigyan Bhairav Tantra

死を装う

自分は死んだと想像することから始まる瞑想です。

死んだ状態、つまりは動けない状態ってことですね。どういう状態で自分は死んだと仮定するかで大変さも変わってきます。例えばベッドの上で静かに息を引き取ったなら、まずはそのまま横たわったまま手足を動かすこともなく目を動かすこともせずただただその姿勢でずっといる。目を開けて死んだと想像するなら瞬きも禁止。死者が瞬きしたりキョロキョロと周りを見るなんてことはしませんからね。例えば、どこかで発作を起こして倒れたなら、事故に巻き込まれたなら、戦乱に巻き込まれたなら…など、いろいろと自分が死んだ時の姿勢を想像してみる。そしてその姿勢で死者のふりをして瞑想する。これが今回の瞑想です。

死者は何もできません。瞑想中どんなに動きたいと思っても死体は動かないのですから動いてはいけません。動きたい衝動に抗いながらこの瞑想を続けのはとっても難しいです。脳内では思考がうるさいくらいにぐるぐるするでしょう。身体をわずかにでも動かせない肉体の不快感も襲ってくることでしょう。でも、死体が動くことはないのです。死体は何もできないのです。だからどんなに不快であっても最初に自分が想定した「死の姿勢」はそのまま維持しなければいけないのがこの瞑想の辛いところです。でも、死んでるんですから何があっても「自分は死んでるように扱う」しかないのです。金縛りの体験がある方なら動きたくても動けない、恐怖とか焦りとか怒りといった思考がぐるぐるするという状況がわかると思います。それを意識的に行うのです。自分の意志でするのと、そういう状況に意図せずなることの違いはありますけど、こういうことかというイメージとしてわかりやすいだろう喩えですが。

さて、ここまで不愉快で不快な状況で行う瞑想に何の意味があるのかってお話になる訳ですよね。ここでは「死」というものを疑似体験している訳です。実際、自分が死ぬときはこういうふうに死んでいくのだと感じる人も居るようです。死を受け入れるという感覚を知る人もいます。selaぴょんはこの瞑想をするとだんだん呼吸が少なくなります。でも苦しくはなかったり。なのでselaぴょんは死に対する恐怖はないんです。でも怪我とかの痛みに対する恐怖は未だに消せてないというおかしな状態だったり。というのはおいといて…。疑似体験ではあっても数分「死」という状態に留まることができたとしたら「変化」に気付くでしょう。変化は人によって様々です。言葉にするのはとっても大変なんですけれどね。

そして応用編。
↑では「死」の疑似体験をしました。言葉遊びに見えるかもですがこの瞑想の先に「死んだ者」ではなく「死んでいること(状態)」という行為そのものなっていくのを理解するでしょう。何でもいいのです。ジョギングが日課とか趣味ならば「走者」から「走ること」そのものになってみる。何かを飲むとき、食べる時に「飲むこと」「食べること」といったプロセスになってみる。行為(プロセス)そのものになるというとイミフに感じるかもしれませんけれど、ただそのプロセスだけになれたとき見つかる何かがあるとだけしておきます^^

二つの息の間にあるもの・その2

呼吸法も8回目になりました。そろそろ飽きてきた感もあるかもしれませんねぇ~。selaぴょんも飽きてきてるもん^^;
タントラは『最大限の献身とともに、息のふたつのつぎ目に中心を合わせ、そして知る者を知る。』です。以前のお話で呼吸の転回点に触れました。吸って、吐いて、また吸って…その繰り返しの中で呼気から吸気に、吸気から呼気にと切り替わる点が呼吸には存在すること、そしてその転回点に意識を向けなさいというお話を。今回のお話と何が違うんですか?って思われる方は多いでしょう。違うのは機械的に呼吸を見つめるのか、タントラにあるように『献身的に』それを行うのかの違いです。わずかな差に思えるかもしれませんが実際には雲泥の差なのです。

人によって、ただただ機械的に呼吸を見つめるのことに得手不得手があります。苦手じゃない人は機械的に呼吸の転回点を見つめ続ければいいので今回のお話はおまけになるかなぁ~。ですが、機械的な技法が苦手な人には前出の技法は苦痛でしかないらしいのです。そういう機械的技法が苦手な人のために同じ技法にわずかな違いが付け足された訳です。それだけこの呼吸のつなぎ目を見つめる瞑想は重要だってことなのですよ。
まぁ、現実問題として苦手かどうかよくわからない方も多いでしょう。どっちも苦痛だって言う方も居るでしょうしw苦痛かどうかよくわからないなら両方やってみればってことになりますかねぇ~。で、両方やってみるとととんでもなく大きな違いに気付くでしょう^^お話を戻して…2つの瞑想法の些細な「違い」が『献身的』ってことな訳です。で、当然ながら『献身的』って何なのよ??ってなる訳です。

信仰心の強い方、自己犠牲の傾向が強い方は神様のため、誰かのため…って、献身する対象が明確であるならばいくらでも自分を投げ打って尽くすことができるでしょう。その献身の対象が自分ならどうでしょうか?できる?できない?受け止め方はそれぞれでしょう。この瞑想では自分に対して献身的になれって言ってるんですよね。あ~めんどくちゃw
かつて聖者と呼ばれる人たちの多くは「自己愛」の権化だったそうです。自分の身体を文字通り愛してるんですよ。まるで自分の肉体が恋人の肉体のごとく慈しみ愛した訳なんですが…この記事読んでる方たちはどうなんでしょうねぇ~?聖者のごとく自分の身体を愛してますか?機械のように思ってます?それとも…。人の数だけ自分に対する思いも違うでしょうが、ここで注意しなくちゃいけないのは「自分が可愛い」のとは違うってことです。

敢えて、聖者を引き合いに出したのは、『聖者の自己愛』とそうじゃない人の自己愛の差って何かということな訳ですよ。聖者と言われる方々は『己の神聖性』を疑うことが無い故に己の肉体をも慈しみ愛せた訳です。言い換えるなら自らに対して献身的になれているのは、自らの神聖性に対する献身ってことになる訳です。なかなかそこまで達観はできません。
今回の技法に当てはめるなら、自分がしている呼吸は自分だけではなく自分の中の神さんも一緒に呼吸してると意識することになります。お神さんと共にしている呼吸であるならば己のすべてをお神さんに捧げるつもりで呼吸する。その中で呼吸の転回点を見つめ、それを「知るもの」が誰なのかを見つけ出す。ってことになる訳です。

簡単じゃありません。でもやってみる価値はあります。興味があればお試しを☆

夢の支配者

2015.08.26  13:11 初出

呼吸瞑想の第7弾です。
ここまでくるとさすがにいろいろと難しく面倒になるんですがその辺は…ってことでw
今回のお話は前々回の「第三の目」の発展形になります。
第三の目の瞑想でプラーナ(気)を感覚で捉えたり視覚化できるようになってる前提での
お話になるのでその辺が「まだです><」ということならば
まずは第三の目の訓練を頑張って下さいってことになります。
この先は第三の目の訓練ができてる前提でのお話ってことで進めま~す^^

眠りにつく前、横になって第三の目に集中する瞑想をします。
集中するうちにプラーナが自分の内に満ち始めることに気付くでしょう。
プラーナで満たされたなら、後は睡魔に身を委ねましょう。
今回の瞑想はそれだけのことです。
簡単ですよね^^ え?違う?…でもやることはそれだけなんだもんw

ここからはこの瞑想で引き起こされる結果のお話です。
結果の一つ目として第三の目に集中しながら眠りに落ちることで
眠りの中でも覚醒していることができるようになるのです。
夢遊病とかじゃないですよ!
例えば、自分が夢を見ているということを認識できるようになるということです。
なんだ、前々回のお話じゃないかって言わないでください。
前々回のお話は起きている状態で第三の目に集中するお話です。
今回のは第三の目に集中しながら寝たらどうなるかってお話なんです^^;
一応、違うお話なんですってことで…あぅぅ~><

気を取り直してお話戻します。
自分が「夢を見ている」ことを認識できる方ってどれだけいるのでしょうか?
夢を認識できないって方は今回の瞑想を少し努力していただくとして
認識できる方はその夢をコントロールできますか?
夢だと認識できたところで、夢の中でも自由に動けるのか実験したり
前に見た夢の続きを見れるか試したりしてみたことありますか?
selaぴょんはよくやってますw
夢だとわかってるから自分に都合のいい展開にもっていってホクホクしてたり
楽しい夢の途中で起きちゃったときに、その続きを見るとかってことをねw
リアルじゃちと(かなり?)無理あるでしょってことも夢の中なら…ねぇww
この程度の夢の支配は比較的簡単にできるようになります。
でも今回の瞑想の行き着く先はこの程度ではありません。
更にこの瞑想を極めることができるなら夢を見ないようになれます。
逆に自分の見たい夢だけを見れるようにもなります。
更には他人に自分の意図することを夢に見せることもできるようになるのです。
で、夢は眠りの浅い部分で起きてることだから
夢を見ることをやめると決めてしまえば、見たいと思わない限り夢は見ないし
眠りも深くなるのでその質も良くなっていくということなのです。
ここまでが第1の結果^^

第2の結果は自分の死期がわかるようになるってことです。
プラーナは第三の目に集中することで感覚的に、視覚的に認識できるようになります。
生に満ちているときは、自分の内にプラーナがどんどん満ちていくのを認識できるでしょう。
ですが、死期が近づくと自分の身内にプラーナが満ちている必要はなくなるので
少しずつ自分の体から放出されるのを自覚するようになることでしょう。
いずれ空になった時が自分の死ぬ日ってことになる訳ですが。
そして第3の結果。
『眠りは短い死であり、死は長い(永い)眠り』ということを理解するってこと。
それが認識できるってことはある意味解脱したってことになっちゃいます。

第2、第3の結果は自分の死や輪廻転生の概念に結びつきます。
特に第3の結果を理解できたとき、人生観は大きく変わることでしょう。
死を「永久の眠り」と称する意味もまたここにあったりするのですが
哲学的な難しいお話になるので割愛しちゃいますけれど
「死をも支配できる」ってお話に繋がるようです^^

突き詰めると、夢を支配することが生や死をも支配することに通じるのです。
自分が自分自身の支配者となれば、これまで支配されてきた中での疑問も
解消されるって言いますけど、selaぴょんは生憎そこまでは辿りついてないので
真偽のほどはお試しあれってことで濁しておきます^^

日常生活の中の呼吸

2015.07.31  16:17 初出

ちょっと前に、呼気と吸気の間にあるものへ意識を向けるお話をしました。
今回はその延長というか応用というか。
何が違うのかって?
前のお話は呼吸そのものだけに集中していればよかったというお話で
今回のお話は日常で「何か」をしながら同時に呼吸に意識を向けろというお話です。

歩いていようが、食事をしていようが、寝ていようが呼吸は続きます。
呼吸だけが存在しているのではなく呼吸と同時に何かの行動が存在するのです。
そのことに気付くか気付かないかで人生はものすごく変わってしまうのです。
何故なら、人は何かをしているとき呼吸している事実を意識から失念する生き物だからです。
別の言い方をするなら、人の意識は呼吸が当たり前すぎて意識を向けるだけの価値がないと判断してるのです。
呼吸は大事かもしれないけれど、それよりも食事とか仕事とか睡眠とかのほうが重要度が高いと
思い込んでしまっているからだったりするのですが…

お話を戻しましょう^^
何かをしながら呼吸に意識を向ける。
表層で起きてる何かを認識しながら自分の中心で起きてることにも意識を向ける。
…言葉は簡単なんですけどね。
やるとなると結構難しいんですよ~w
でも次第にできるようになりますから^^
それで何が変わるのか?
「人生という壮大な演劇の中で『自分』という役を演じている」ことに気付くということ。
もし自分が役を演じているという事実に気付くなら
今自分が直面している問題は意外と大した問題じゃないって気付くってことでもあるのです。

誰しも学芸会レベルで何かの役を演じた経験があると思います。
お芝居の中での役がどんなものであれそれは自分ではなく
あくまでも役であって、配役の都合でその役を演じているだけで
自分と役は同一ではないと認識してますよね?
役の人物がどのような境遇であったとしてもそれは自分の現実の境遇ではなく
あくまでも架空の出来事で実人生に何の影響もないものと認識できてますよね。
この瞑想ができるようになると役者のようにに「実人生」という名のお芝居を
演じているのが人生だと認識できるようになるということなのです。

結果何が起こるのか?
いろいろとありますけれど、人生がお芝居であるならば
自分で如何様にでも人生を演じられるということになる訳です。
厳密には既に確立されてしまった社会的立場などなどで
思うようにいかないところもありますけれど
自分の意志で書き換え可能な事象ならば如何様にでも人生を変えられるということです。
極論、お金持ちのように振る舞えばお金持ちになり得るってことですよw

現実問題としてそうならないのは
その「役」になり切れない自分が居るってだけのお話です。
そう!世の中はとっても単純明快^^
複雑にしてるのは自分自身ってことなんですけどね。
自分が役者だって気づいてしまえばその役をどう演じるかだけですから。

喩えば。
学者を演じたいなら、役者が台詞を覚えてその役になり切るように
難しい学術用語もスラスラと語れるようにならなくちゃいけないし
スポーツ選手を演じたいなら、それに必要な身体能力を身につけるって設定が必要な訳です。
良いところのお嬢さんって言われたいなら立ち居振る舞いをそれらしくする必要もありますし
いい男(女)って言われたいなら、その定義に当てはまるようにすることも必要ですしね。
そういう「演技」が完璧にできるほど自分の人生は変わっていくってことです。
ついでに、演技力をカバーするための小道具が必要になる場合もありますしねぇ~w

それと実際問題としては既に確立してしまった「自分」というキャラクターが邪魔なことも^^;
周囲の人たちはそのキャラクター=その人であると認識しちゃってるので
なかなかそのイメージを壊すのって大変なですからねぇ~;
もしも、転居、進学、転職といった今までの交友関係とはまったく違う
交友関係を確立する機会に恵まれたなら新しい自分という「キャラクター」を
作り直してみるのも一つの手かもしれません^^

でも、その前に自分が単なる『役者』だということを常に認識してないと
今の自分の境遇に負けてしまって身動きできなくなるってオチになるだけなので
今回の瞑想で『人生=演劇』ってことを実感することから始めちゃって下さいなのでした☆

第三の目の開き方

2015.06.29  13:44 初出

呼吸瞑想第5弾です。
…ですが、いきなりなタイトルになってます。
呼吸と第三の目がどうつながるんだ?って疑問がわいてるでしょうからw
まぁ、最後まで読んでいただければ「なるほどね」と理解できるでしょう。(タブンキット)

第三の目を知ってるかと問われれば、誰しも「知ってる!」って言うことでしょうね。
仏像とかの額にあるやつですよ。漫画とかアニメで額に目があったりするあれですよ。
開くととんでもない超能力(?)を発揮するっていうあれですよw
仏画とか二次画の類だと額にぱっくりと縦だったり横だったりの違いはあるけど
「目」が書かれてますけどねぇ実際はそんなのありません。
あれは「ものの喩え」での表現ですから。
では実際に第三の目はあるのかないのか?
ありますよ。ただ二次画のようないかにもな目とは違いますけどねぇ~^^;

第三の目は額に目としてあるものと思い込んでる方って意外と多かったりするんですよねぇ~
一部には修行をすればいずれ額が裂けて「目」が開くんだと信じてる方もいるようですしw
それ、錯覚ですから。宗教画とか二次画の弊害でしかないですから^^;
実際に額を触ってわかるように「目」らしきものなど影も形もないでしょう。
では第三の目って実際はなんなのよ?ってお話です。
「目」と言ってますけれど実際は体内のエネルギーが集約される点の一つです。
場所としては顔の中央線上、眉間と両目の間の範囲内になります。
座禅中の仏像が半眼で両目の間に意識を向けているように見えるのは
第三の目に集中しているからだと言われます。
一説によると第三の目と呼ばれる場所はその人の精神修養によっても変わると言われてます。
悟りに近い状態まで精神修養ができている人ほど下の位置にあり
できていない人ほど額寄りの上の方にあるというのです。真偽のほどは定かではありませんがw
それと、自分の顔に向けて人差し指の先を向け、両目を閉じた状態で指を顔に近づけたとき
指先が触れた場所がその人の第三の目の場所だという説もありますので
おおよその位置を把握する意味でやってみるのも悪くはないでしょう。
ということで、自分の第三の目がどこにあるかの目安ができたところで瞑想のお話に移りましょう☆

まずは目を閉じて自分の第三の目があると思われる場所に意識を集中させます。
最初は難しいかもしれません。目を閉じた状態で、ものが見えているときと同じように
第三の目の場所に視点を合わせるというのは。
ですが、タントラの書では「第三の目は注意力を餌とする」と言われるように
正しい場所に視点が合うほど他へ注意力を向けることが難しくなります。
まずはその場所を見つけることが第一段階になります。

視点が合うようになるとそこにまるでスクリーンでもあるかのように
いろいろな映像が映し出され始めることでしょう。
これを「メンタルスクリーン」と呼ぶこともあります。
いわゆる透視や遠隔視などといった才に恵まれた方はこのメンタルスクリーンの展開が
何の苦労もなくできる技量を持ち合わせていたってお話です^-^
…脱線したのでお話を戻します^^;
スクリーンに映し出される映像の多くは自分の思考です。
喜怒哀楽、欲望、願望といったものが際限なく映し出されることでしょう。
そして気づくはず。自分が観察者でありその思考に同化していないということに。
喩えるなら、夢を見ているときに「自分は夢を見ている」と理解し
その夢のお話を楽しんでいるのに近い状態です。
思考に影響されることのない自分をしっかり体感してください。
で、ここまでが下準備☆ここから先が本題になります。(オイ)

メンタルスクリーンが展開できるようになったところで呼吸に集中してみましょう。
ある時点で気づくはずです。呼吸に色があることに^^
ただの空気だと思っているそれは「気」と呼ばれるエネルギーでもあります。
いろいろな場所でこの瞑想をすることで色の違いに気付くはずです。
明るい色、暗い色、カラフルだったり、単色だったり…
次第に理解することでしょう。自分を元気にしてくれる色やそうでない色があることを。
その時々で自分が必要としている「色」が違うことも。
ただ空気…酸素と二酸化炭素…を呼吸によって入れ替えてているだけですが
それだけじゃないのだということに気付く時が来ます。
空気はただの媒体でしかなく、本当に取り入れていたものは別のものだったってことに。
「気」だの「プラーナ」だの「オーラ」だの「オルゴン・エネルギー」だの
いろんな名称で呼ばれてますけれどね。その辺は好きに呼んで下さいなw
一応、このブログの元ネタはタントラなのでここでは「プラーナ」と呼ぶことにしますけれど。
余談です。一度、このプラーナを空気を媒体とせず直接取り入れる方法を習得すれば
何百年でも生きれるようになるというお話もあります。
…真偽は定かではないので自分で体験してもらうしかないけれどw

プラーナを見ることができるようになったなら自分がそれで満たされるところを
そして全身にプラーナを浴びている様を想像して下さい。
それによって自分が変わっていくのを感じることができることでしょう。

更に応用編☆
第三の目と超能力が結び付けられているのは理由があります。
自分の意識が第三の目に集中している状態で想像したことは現実になりやすいのです。
古い中国の詩に胡蝶の夢というものがあります。
夢と現実の境界がわからなくなってしまった様を綴ったものですが
第三の目へ集中しながら何かを想像する訓練をした際の初期に同様のことが起こりやすくなります。
いずれその境界を理解したときに想像は現実であり現実は自分の夢だと理解できるでしょうね。
…ま、自己実現の一つの技法だとでも思ってください。
そのうちそれが意味するところを本質的に理解できるようになったとき
自分がどんな才を手に入れたかわかるでしょうから^^

ということで、このお話はこの辺でお茶を濁すことにするのであったった☆