2015.06.08 14:49 初出
呼吸シリーズ第4弾です^^
息を吐ききった瞬間、あるいは吸い切った瞬間息は止まります。
その瞬間に人は自分という存在を忘れるというのです。
それができないのは不純だからというのがシヴァの言い分。
何が不純で何が純粋かはともかくこの瞬間を誰もが経験することはできるのです。
たとえば誰かに驚かされた瞬間、びっくりして一時的にでも息が止まった経験ありませんか?
ドジなselaぴょんは階段から落ちそうになった瞬間
いろんな思考が脳内を駆け巡ったものの何もできなかったという経験とか
それに似たような経験が山ほどに><
感覚としてはいろんな思考が駆け巡るのでそれなりに時間があると思っていても
それはほんの瞬刻でしかないために肉体は何もできない訳で
そういう時は無意識のうちに人は呼吸することすら忘れてしまうのです。
で、結果大怪我したり、怪我はなくても打ち身とかで痛い思いをしばらくする訳ですが><
selaぴょんの事故の数々は自分の意識とは関係のないところで偶発的に
(本当にそうなのかは謎)起きたものだけれどこれを人為的に行うことに特化した
修行を行っていた集団があります。ぞれが禅宗の僧侶たちです。
禅僧の修行の中にはこういうのがあるんですよ。
師匠が突拍子もないタイミングで弟子を苦難の中に叩き込むことで
この息が止まる瞬間を経験し見極めさせるという修行がね^^;
逸話を見てるだけでやめてくれって感じですよw
師匠が弟子にいきなり殴りかかるとか窓から放り投げるとかはまだしも
崖から突き落とすようなことまでしたっていうんですからね^^;
中には強者もいたようです。
師にどうやれば悟りが開けるのかと問いかけ師の言うとおりにすればできると言われ
修行とは因果関係のないようなことを散々させられ、最後は崖から飛び降りたりして
悟りに至ったと人もいたというのだからお見事です。
さすがに今の時代そんな真似したら大騒ぎは必至ですから無理ですけどねw
本題に戻りましょう^^
思考にとって理不尽な状況が訪れたとき息は停止します。
この時何も気づかぬまま、何もできぬまま、自分の本質が目覚めぬままだと
それは死に至ることもあるでしょう。
ですが、この瞬間に気づき、本質が目覚めているならば
生きてブッダと同じ境地に立てると言います。
…何度か機会があったのに大怪我してるってことは
まだまだ境地には達してないってことだよね><
純粋な人ならば↑のような暴挙に頼らなくとも停止を体感できるといいます。
さてここでいう純粋な人ってどんな人でしょうね?
ここでいう純粋とは、何も望まず、渇望せず、探求しない思考のことだそうな。
世の中ほぼすべての人が何かを求め、望み、渇き、探し求めているのに
純粋な人なんて存在するのかどうか疑わしいですけどね。
だからこそ『技法』が存在するってことなのでしょう^^;
それと呼吸は人の精神状態に結びつきやすいものです。
現在人は体を動かすことが少ない傾向にあると言います。
激しい運動でもしない限り呼吸が激しくなるようなことも少ない訳です。
結果的に現代人の呼吸は緩やかでゆっくりしたものに。
言い換えるなら呼吸に合わせて思考も停止しやすいってことなので
この仕組みを理解できれば古代人や中世の庶民より
たやすく悟りに至れるというお話になるんですけどねぇ
どうなんでしょうねぇ~ってことでw
ここからは余談☆
かの有名なフロイト博士がこんなことを言っておいでです。知ってますか?
「セックスは最高の鎮静剤」
現代人の呼吸と運動の関係から出た言葉のようです。
現代の肉体労働をほとんどしない人類にとっては
セックスが唯一の肉体労働だと言い切る人もいるようです。
医学的にも説明できるようですよ。
セックスの抑圧は心臓循環器系の疾病を招くって。
スピ的にも一部の思想では推奨されてますよね。
セックスによる運動が循環器系の活動を促し
呼吸が深く激しくなることで肉体の核に触れることもできますしね。
(前回のお話に通じる部分です)
一見、今回のお話とは相容れないように見えますが深いところでは通じてます。
セックスの時、思考は欲望と色情で溢れかえります。
そう不純に満たされる訳ですねぇ~
じゃぁ、終わった後はどうでしょ?質のよいセックスしてるなら
満足しきって頭空っぽってなりませんか?
究極のリラックス状態になっていませんか?
ちょっとやり方に難ありですが、究極の対の形で純粋さ
…何も求めない、望まない状態を作り出せてる訳です。一時的ですけどねw
その瞬間を自覚でき、呼吸が止まる瞬間に気付けたら新しい世界が開ける。
そういうお話ってことですよw
さてさて長くなりましたけど大事なパートナーが居るのなら
パートナーとの関係ちょっと見直しては如何でしょ?
上質な交わりを体感することをお勧めします☆
呼吸シリーズ第4弾です^^
息を吐ききった瞬間、あるいは吸い切った瞬間息は止まります。
その瞬間に人は自分という存在を忘れるというのです。
それができないのは不純だからというのがシヴァの言い分。
何が不純で何が純粋かはともかくこの瞬間を誰もが経験することはできるのです。
たとえば誰かに驚かされた瞬間、びっくりして一時的にでも息が止まった経験ありませんか?
ドジなselaぴょんは階段から落ちそうになった瞬間
いろんな思考が脳内を駆け巡ったものの何もできなかったという経験とか
それに似たような経験が山ほどに><
感覚としてはいろんな思考が駆け巡るのでそれなりに時間があると思っていても
それはほんの瞬刻でしかないために肉体は何もできない訳で
そういう時は無意識のうちに人は呼吸することすら忘れてしまうのです。
で、結果大怪我したり、怪我はなくても打ち身とかで痛い思いをしばらくする訳ですが><
selaぴょんの事故の数々は自分の意識とは関係のないところで偶発的に
(本当にそうなのかは謎)起きたものだけれどこれを人為的に行うことに特化した
修行を行っていた集団があります。ぞれが禅宗の僧侶たちです。
禅僧の修行の中にはこういうのがあるんですよ。
師匠が突拍子もないタイミングで弟子を苦難の中に叩き込むことで
この息が止まる瞬間を経験し見極めさせるという修行がね^^;
逸話を見てるだけでやめてくれって感じですよw
師匠が弟子にいきなり殴りかかるとか窓から放り投げるとかはまだしも
崖から突き落とすようなことまでしたっていうんですからね^^;
中には強者もいたようです。
師にどうやれば悟りが開けるのかと問いかけ師の言うとおりにすればできると言われ
修行とは因果関係のないようなことを散々させられ、最後は崖から飛び降りたりして
悟りに至ったと人もいたというのだからお見事です。
さすがに今の時代そんな真似したら大騒ぎは必至ですから無理ですけどねw
本題に戻りましょう^^
思考にとって理不尽な状況が訪れたとき息は停止します。
この時何も気づかぬまま、何もできぬまま、自分の本質が目覚めぬままだと
それは死に至ることもあるでしょう。
ですが、この瞬間に気づき、本質が目覚めているならば
生きてブッダと同じ境地に立てると言います。
…何度か機会があったのに大怪我してるってことは
まだまだ境地には達してないってことだよね><
純粋な人ならば↑のような暴挙に頼らなくとも停止を体感できるといいます。
さてここでいう純粋な人ってどんな人でしょうね?
ここでいう純粋とは、何も望まず、渇望せず、探求しない思考のことだそうな。
世の中ほぼすべての人が何かを求め、望み、渇き、探し求めているのに
純粋な人なんて存在するのかどうか疑わしいですけどね。
だからこそ『技法』が存在するってことなのでしょう^^;
それと呼吸は人の精神状態に結びつきやすいものです。
現在人は体を動かすことが少ない傾向にあると言います。
激しい運動でもしない限り呼吸が激しくなるようなことも少ない訳です。
結果的に現代人の呼吸は緩やかでゆっくりしたものに。
言い換えるなら呼吸に合わせて思考も停止しやすいってことなので
この仕組みを理解できれば古代人や中世の庶民より
たやすく悟りに至れるというお話になるんですけどねぇ
どうなんでしょうねぇ~ってことでw
ここからは余談☆
かの有名なフロイト博士がこんなことを言っておいでです。知ってますか?
「セックスは最高の鎮静剤」
現代人の呼吸と運動の関係から出た言葉のようです。
現代の肉体労働をほとんどしない人類にとっては
セックスが唯一の肉体労働だと言い切る人もいるようです。
医学的にも説明できるようですよ。
セックスの抑圧は心臓循環器系の疾病を招くって。
スピ的にも一部の思想では推奨されてますよね。
セックスによる運動が循環器系の活動を促し
呼吸が深く激しくなることで肉体の核に触れることもできますしね。
(前回のお話に通じる部分です)
一見、今回のお話とは相容れないように見えますが深いところでは通じてます。
セックスの時、思考は欲望と色情で溢れかえります。
そう不純に満たされる訳ですねぇ~
じゃぁ、終わった後はどうでしょ?質のよいセックスしてるなら
満足しきって頭空っぽってなりませんか?
究極のリラックス状態になっていませんか?
ちょっとやり方に難ありですが、究極の対の形で純粋さ
…何も求めない、望まない状態を作り出せてる訳です。一時的ですけどねw
その瞬間を自覚でき、呼吸が止まる瞬間に気付けたら新しい世界が開ける。
そういうお話ってことですよw
さてさて長くなりましたけど大事なパートナーが居るのなら
パートナーとの関係ちょっと見直しては如何でしょ?
上質な交わりを体感することをお勧めします☆